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対馬の歴史について

海上交通の拠点


(写真: 烏帽子岳展望所から見た浅茅湾)


 島全体が岩がちであり、耕地が乏しいという地理的条件のため、古代より九州本土と朝鮮半島を結ぶ海上交通に活路を見出してきました。
 対馬最古の越高(こしたか)遺跡(紀元前6800年頃)からは九州と朝鮮半島の遺物が同時に出土し、当時から九州と朝鮮半島の間で人と物の交流・交易があったことを示しています。

 

大陸文化の中継地


(写真: 古代の港・西漕手(にしのこいで) 対馬市美津島町小船越)


 倭人(日本人)は古代から鉄を求めて朝鮮半島に進出し、また国際的な地位の向上と大陸文化を摂取するため中国へ使節を派遣し、金属器・漢字・仏教・政治制度などさまざまな大陸文化が対馬を経由して日本に流れこみました。
 大陸と九州の間に位置する対馬は、いわば日本の「へその緒」のような重要な役割を果たしました。

 

攻防の最前線


(写真: 古代山城・金田城(かなたのき) 対馬市美津島町黒瀬)

 

 「白村江の戦い」(667年)において唐・新羅連合軍に敗北した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)は、対馬に古代山城「金田城」(かなたのき/かねだじょう)を築いて防人を配置するなど国境防衛を固め、一方で中央集権化を図り、倭国から「日本」への脱却・変貌を目指しました。
 日本・新羅・唐という国家が成立したことにより、対馬は常に国家間の緊張にさらされる「国境の島」になりました。

 その後、鎌倉時代の元寇では大きな被害を受ける一方、倭寇(海賊)となって朝鮮半島・中国沿岸を襲い、また文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)では先陣となり、また戦後処理を行うなど、常に国家レベルの攻防の最前線となりました。

 

対朝鮮外交


(写真: 対馬藩主宗家菩提寺・万松院(ばんしょういん) 対馬市厳原町西里)

 

 「文禄・慶長の役」後の和平交渉において実績を認められた対馬藩は、江戸時代を通じて幕府から対朝鮮外交を一任され、朝鮮半島に10万坪(長崎出島の25倍)の外交通商施設「倭館」(わかん)を運営し、対馬藩士400~500人が滞在していました。
 また、朝鮮王朝から江戸幕府に派遣される外交使節団「朝鮮通信使」の交渉・接遇・先導・護衛を務めるなど、独自の外交機能を発揮しました。

 

対馬要塞


(写真: 姫神山(ひめがみやま)砲台 対馬市美津島町緒方)

 

 幕末、ロシアはポサドニック号事件(ロシア軍艦による対馬占領事件)を引き起こし、日本を植民地化する野心を覗かせました。
 明治19年に対馬を視察した伊藤博文・山形有朋などの元老は対馬の軍事的重要性を認め、翌年には対馬要塞の整備が着手されます。
 明治から昭和にかけて対馬には31ヶ所もの砲台が築かれ、全島が要塞化されていきました。

 

対馬歴史観光ガイドブック

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>>対馬歴史観光ガイドブック~国境の島 交流と国防の最前線~(ブログ記事)
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